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弦楽四重奏曲第6番(F.メンデルスゾーン)の世界!

皆様ごきげんよう!(お久しぶりです。)

今日は最近好きでよく聞いている曲をご紹介しようと思います!メンデルスゾーン作曲「弦楽四重奏曲第6番ヘ短調 作品80」です。

 

ごめんなさい、「おカタい純クラシック曲」ばかり紹介してしまって。
でも、やっぱりクラシック曲には、ぜひ聞いて共感してもらいたいテーマがあるんです。とても純粋な、人間の心の動きが。

 

例えばそう、
「若くして亡くなってしまった大切な誰かを偲ぶとき、人は何を考え、自らの人生に何を思うのか。」

 

自身に起こった悲劇に際し、このテーマと向き合い作品に昇華したのがフェリックス・メンデルスゾーン
彼はクラシック史上に残る稀代のメロディ・メーカーで、東の横綱・歌曲王シューベルトと並んで西の横綱と称されることもあるそうです。

まずは、そんなメンデルスゾーンの代表曲、歌曲「歌の翼に」をお聞きください。

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ああ、なんという美しさ!

流麗で、上品で、洗練されていて、無駄がない感じ。これこそメンデルスゾーンの真骨頂なのです。

その才能は、序曲「フィンガルの洞窟」や交響曲第3番「スコットランド」など、特に風景を描いた作品で開花し、一方で「風景画家」「上品ゆえに中身が薄い」と揶揄もされてきました。

 

さて、今回紹介する「弦楽四重奏曲第6番ヘ短調 作品80」は、そんなメンデルスゾーンの作品群にあって、ひどく内面的で感情的な、かなり異色の作品です。

 

それではまず、作曲者のフェリックス・メンデルスゾーンの生涯についてお話ししましょう。

 

メンデルスゾーンは、貧しい幼少期を過ごした多くの偉大な作曲家と違い、裕福なユダヤ人の銀行家の家庭で育ちました。

時代は1800年代のドイツ。私たち日本人には分からない歴史観ですが、「ユダヤ人の銀行家」というだけで差別・迫害された時代でした。

恵まれた環境ながら、生きにくかった幼少期、フェリックスは、自然と同じ音楽の道を志した姉ファニーのことを慕うようになり、姉ファニーもまた、弟フェリックスを可愛がるようになります。

 

ー2人が築いた姉と弟の絶対的な姉弟愛ー

どんな差別や苦しみも一緒に乗り越えてきた二人には、他の誰よりも共に時間を過ごし、他の誰よりもお互いを理解し、他の誰よりもお互いを想っている自信がありました。
二人は最初から、音楽で繋がっていたのです。血縁だけでなく。音楽で会話し、音楽で心を通わせる。
この悪意に満ちた芸能の世界を生き抜く上で、それがどれほどの心の支えとなってくれたでしょうか。

後に姉も弟もそれぞれ結婚するのですが、それでも姉弟の愛は変わらなかったと言います。

二人だけの姉弟愛、二人だけの世界。それはもはや自分の一部。そして永遠に続くもの。二人とも、ずっとそう信じていました。

 

さて、時は流れ神童として名を馳せた弟フェリックスは指揮者•作曲家として成功して名声を手にし、気付けば38歳になっていました。

1847年5月のある日、そんな売れっ子になった多忙な弟のもとに、ある知らせが届きます。

……それは、姉ファニーの突然の訃報でした。
脳卒中、演奏会に向けて弟の作品をリハーサルしている途中の、突然のことだったそうです。

 

38歳の若い魂が受けたショックはどれほどだったでしょう。
どんなに音楽で語りかけても、もう姉から返ってくるものは永遠にないのです。
それはまるで失明や失聴のような、自分の一部がなくなってしまうような感覚。二人だけの絶対領域が永遠に失われてしまった瞬間でした。

「音楽のことを考えようとしても、まず心と頭に浮かんでくるのはこの上ない喪失感と虚無感なのです。」

フェリックスはあまりの心痛に作曲もままならなくなってしまいます。
弟に連れられスイスを訪れた7月、何日も山を徘徊した後、今度は何日も部屋に閉じこもり、そうして9月に完成させたのが、この弦楽四重奏曲第6番なのでした。

 

大切な人を失い、喪失感と虚無感のなかで稀代のメロディ・メーカーが遺した室内楽曲。

風景画家が描いたこの上ない心痛は、果たして何色だったのでしょうか。

ここからは、各楽章についてご紹介いたします。

※100%筆者の主観です。かなり脚色していますので真に受け過ぎないでください!

 

第一楽章

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チェロとビオラの掻きむしる様な激しいトレモロで幕を開けます。
これが本当にあの、「歌の翼に」のメンデルスゾーン

その様は「激しく取り乱している」とだけでは言い表せない狂気的な何かを感じます。

例えばそれは、黒い鉛筆を雑に握りしめ、真っ白な紙をグチャグチャに塗り潰している様な狂気。

しかし前述のような曲の背景を知ると、「狂気」に思えたものは「深い悲しみ」なのだと知ることができます。

力のこもった手元とは異なり、その目は虚空を見つめている。
そうして心に空いた穴を埋めるみたいに真っ白の紙を塗り潰し続けていないと、まぶたから滲み出る涙が、きっと溢れ出してしまうから。

 

しかし中盤、半音ずつ上がっていく音形に、ついに胸は張り裂け、心は絶叫し、もうどうにも止めどなく涙が溢れてきてしまいます。
バイオリンの高音による絶叫はあまりに痛々しく、ストレートな感情表現で聞く者の耳に、心に深く突き刺さります。

心を支配するこの”何か”が、「悲しみ」とか「絶望」とか、そんな陳腐な言葉で片づけていい訳ない。でも結局、どうしようもなく悲しいし、死ぬほど辛い。
コーダに入るとテンポを上げ、心のシャッターを閉じてしまうように、混乱と絶叫のなか一気呵成にピシャリと曲を終えてしまいます。

どうやらまだまだ、この段階の人には他人の声は届かないようです。あなたなら、この状態のメンデルスゾーンに、何と声をかけますか?

 

第二楽章

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第一楽章と同じヘ短調で、流れる様に第二楽章が始まります。
不安にさせるシンコペーションのリズム、半音ずつ上がっていく伴奏、メンデルスゾーンとは思えない単純なモチーフ。

ああ、このよく分からない焦りと絶望感は何だ。

でも第一楽章のような、激しい絶叫はありません。
一方で、いなくなった姉を偲ぶ心の余裕もない。
何かが過ぎ去って行くのを、ただ耐えて待っているだけ。

最後には、疲れ果てて、言葉もありません。
ひとり下を向いて、歯を噛み締めて、ただ耐えているのです。
ああ、可哀想に。ただただ気の毒で可哀想な第二楽章です。

 

第三楽章

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変イ長調アダージョです。この曲が「姉ファニーへのレクイエム」と言われる所以でもある大事な楽章です。

さて、ここまで二つの楽章で自分を見失いつつ心の内を赤裸々に告白してくれたメンデルスゾーンですが、ようやく姉との思い出に心を寄せ、天国の姉に向けた気持ちを吐露してくれます。

亡くなった人と向き合う心の準備ができたとき、人は何を伝えたいのでしょうか。

「今までありがとう。」という感謝なのか、
「どうして死んじゃったの。」という怒りなのか、
「私を置いていかないで。」という悲しみなのか。

それを表現するのは作曲家というよりは演奏者の方なのですが、今回の演奏者である「Quatuor Ébène」の皆さんは本当に色んな感情を見せてくれています。

 

姉の写真を前に、ひとり静かに語り始めた弟。
楽しかった家族の思い出、いつも自分の一歩前を歩いていた姉のカッコよさ、生前は恥ずかしくて言えなかったことも思い出して話しているうちに、
スビト・ピアノで姉がもう帰らぬ人となってしまったことを改めて思い出し、“悲しみの”涙が溢れてしまいます。

ねえなんで!どうして死んじゃったんだよ!僕は...僕はこれからどうすればいいんだ……

……ちがう!そんなことが言いたかったんじゃない。そうじゃない…そうじゃ……

心を落ち着けて主題が2周目に入ると、涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、でも努めて笑顔のまま、感謝の気持ちと姉の安らかな眠りを祈るのです。

「ありがとう。……ずーっとずっと、大好きだよ、姉さん。」

 

第四楽章

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ソナタ形式のフィナーレです。シンコペーションのリズムモチーフが曲の最後まで貫かれているのが印象的です。

さて、姉の安らかな眠りを祈ることができたメンデルスゾーンは、フィナーレで何を描くのでしょうか。

(本当のところは分かりませんが)
それは「姉亡き後の、この先の私の人生」ではないでしょうか。

 

姉亡き後も、音楽家として生きていかなければならない弟。しかし「音楽のことを考えようとしても、喪失感と虚無感しか浮かんできません。」という弟。

頭の中で響いていた幸せな日々のあの美しい旋律を奏でる小鳥たちは、もう二度と戻って来るとは思えませんでした。

何しろ、姉さんはもうこの世に、僕の近くにはいてくれないんだから。

 

一楽章にあった狂気的な叫びでもなく、
二楽章にあった正体不明の焦燥感でもなく、
三楽章にあった祈りでもない、新たな感情。

 

ふと避暑先のスイスで外を見ると、あのリストも描いた「スイスの夕立ち」、物凄い豪雨と稲妻が目に耳に入ったかもしれません。

 

姉さんのいない世界なんて……絶望だ…

違う。僕は大丈夫なんかじゃない。姉さんを思い出になんかしたくない。僕は全然ひとりでも大丈夫なんかじゃないんだ!

 

中盤からフィナーレにかけて、感情は昂ぶり、閃光が走り、雷鳴が轟き、テンポはどんどん上がり、「もうどうすれば良いかわからないし、誰にも分かってもらえなくて良い」と言わんばかりの決然としたヘ短調で、再びピシャリと心のシャッターを降ろして曲を終えます。

 

さて、この状態の人に私たちは何と声をかけてあげれば良いか。悩みどころです。

だって、時間をかけて本人が気持ちを整理して事実と向き合うしかないのです。

 

しかし、メンデルスゾーンはこの曲完成の2ヶ月後、1847年の11月4日、姉ファニーと同じ脳卒中で姉の後を追う様にして38歳の若さで亡くなってしまうのです。

「疲れたよ。ひどく疲れた。」と言い遺し。

 

なんと残酷な運命。

ここまで知って聞いてみれば、きっともうあなたも、メンデルスゾーンとこの弦楽四重奏曲第6番の虜のはず。

 

「若くして亡くなってしまった大切な誰かを偲ぶとき、人は何を考え、自らの人生に何を思うのか。」

メンデルスゾーンが出せなかったこの問いへの皆さんの答えを、是非私にもいつか教えてくださいね!

交響曲第5番(シベリウス)の世界!

 

皆さんごきげんよう

 

さて、今回ご紹介するのはシベリウス作曲の交響曲第5番変ホ長調作品82です!

 

待って!行かないで!自然を愛するアナタや北国を恋しく思うアナタなら、きっと好きになってくれるに違いないのです!

交響曲だからって、全てが分かりにくくて退屈なわけではありませんから!!

 

 

かく言う私も、「シベリウスは掴みどころがなくて難解」みたいなイメージをずっと持ってて、演奏する機会もなくて、シベ2とシベコン以外はずっと聞きもせずにここまで来ました。

 

しかし今年の春、ひょんなことから初めてこの曲を聴きました。

 

何この感じ。曲中30分間続いた、この予感。

あ、僕、恋をした、って思いました。

 

ですから一度だけ、ご紹介だけさせてほしいのです…!そして、一度だけ、聞いてみてほしいのです…!

 

 

シベリウスは1915年、自らの生誕50周年祝賀演奏会のために、この曲を作曲しました。Wikipediaによると、この交響曲を作曲中の1915年4月、散歩の途中で近づいてくる春の気配にこの交響曲のインスピレーションを得たことを書き記しているそうです。

 

 

春の気配。

日本に住んでいる私たちにとっての春の気配といえば、何があるでしょう。

梅の香り、たけのこ、色づき始めた桜の花。スーパーマーケットの新玉ねぎ、新じゃが、春キャベツ。眠気を誘う春の陽気。

と、えも言われぬワクワク感。

 

 

 

しかしシベリウスが目にした光景は違いました。

 

「空を羽ばたく16羽の白鳥の群れ」

あまりの感動に、シベリウスは「人生の中でも素晴らしい体験の一つだった!」との言葉を残しているそうです。

 

シベリウスの言葉です。

「日はくすみ冷たい。しかし春はだんだん近づいてくる。今日は16羽の白鳥を見ることができた。神よ何という美しさか。白鳥は私の頭上を長いこと旋回して、くすんだ太陽の光の中に消えて行った。自然の神秘と生の憂愁、これが第5交響曲のテーマなのだ。」

 

…………………………

フィンランドの冬は、それは厳しいものなのでしょう。日本人の私たちには想像もつきません。

緯度の高いフィンランドの冬は、極夜といって、一日中太陽が上らない地域もあるそうです。(いわゆる「白夜(びゃくや)」の反対です。)

これが相当人々の気を滅入らせるそうで、鬱の症状を発症する(越冬症候群、季節性感情障害)方も多いんだとか。

一日中薄暗くて、寒くて、気だるくて、眠気が支配する冬。東京に暮らす私の想像を絶する不毛の季節です。

 

そんなフィンランド人のシベリウスが目にした春の気配とは。

何ヶ月も待ち侘びた朝日の光。雪解け水、ふきのとう、冬眠から目覚める動物たち。

河辺の熊、葉を伝う露。雪の中から姿を現した森の土。

ブワっと舞い上がる春の強い風、森の木々の嬉しそうなざわめき。

そして、太陽に向かって飛び立っていく16羽の白鳥たち。

 

 

フィンランドの冬を知るシベリウスにとって、これ以上に神々しく感動的な光景は世界中どこにもないのでしょう。

自らの誕生日をお祝いする題材として、これほど適切で心踊る題材はない、そう思ったとしても、何の疑問もありません。

 

そんなことに思いを馳せながら、是非一度聴いてみてください。

 

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ではここからは、各楽章をご紹介していきます。

 

 

第一楽章 

初稿の段階では第一楽章、第二楽章としていたものを改訂し融合させたものだそうで、ソナタ形式の前半、スケルツォの後半から構成されます。

冒頭、ホルンによる牧歌的な問いかけに、木管楽器群が答えます。

木管楽器は英語で【woodwinds】と訳されるのですが、まさに、ホルンが鳴らした春の鐘を、木管楽器が爽やかな春風(winds)となって国中に届けている様が浮かびます。みんな、起きて!春だよ!

その様子は、血が一気に全身に巡っていく感じというか、視界が一気にフルカラーになっていく感じというか、温かくて嬉しくて、安心感に満ち溢れた気持ちにさせてくれます。

 

暖かくて柔らかくて、でもどこか神秘的な物語の終盤に登場する、トランペットの低音によるファンファーレ。

私はこれを聞いて、海上自衛隊旗(旭日旗)のような神々しい太陽の光を想起していました。

少しずつ昇っていく弦楽器の分散和音に、山々から漏れ出る真っ直ぐな朝日の光は湖に反射してキラキラと揺れ、それはもはや西風の神ゼフィロスがもたらす柔らかな春の気配などではなく、仏様の後光のような有り難く神々しい光。

そして華々しく感動的な4音で第一楽章を結ぶのです!

 

 

 

第二楽章

変奏曲の形式による緩徐楽章です。主題を6回変奏させて進行します。

交響曲第5番の、第二楽章で、変奏曲。といえば………そう、ベートーベンの「運命」です。そういえば第一楽章終結の4音も、運命の動機に似てるような……?

クラシックを知ってくると、そういう所が勝手に繋がって「エモ」や「胸熱」が何倍にも広がっていくんですよね!

ちなみに(酔っ払う前の)オーケストラのメンバーはこの手の話が大好きです。

 

さて、第二楽章のお話に戻りましょう。

第一楽章が、湖と山々越しに臨む、朝日の堂々たる日の出だとしたら、第二楽章はもっとグーーンとミクロの視点のように感じます。

舞台は針葉樹の森。葉っぱを伝う雪解け水が地面や池に垂れ落ちるような、軽快で瑞々しいビオラ・チェロのピチカートから物語はスタートします。

日は高くのぼり、
木漏れ日は優しく大地の雪を溶かし、
凍った河川は雪解け水により流れを少しずつ増やし、
その河辺には冬眠から目覚めた熊やトナカイが水を飲みに集まり、
森は生気と活気を取り戻していくのです。

なんて事のない、フィンランドの森の平安に満ちた春の1日。それがこんなにも美しく、愛おしいなんて。そんなシベリウスの幸せなため息が聞こえてくる様です。

そしていつまでも続くかに思えた変奏曲は、オーボエのソロにより、とってもチャーミングなスタッカートで、突然終わりを迎えます。それはまるで、森を眺めるシベリウスの、春のうたた寝という最高に幸せな結末。

 

 

 

第三楽章

冒頭から疾走感が印象的なフィナーレです。

このティンパニと弦楽器のトレモロによる始まりを聞いたとき、炭酸飲料のCMでよく見るような、真正面からの風に前髪が揺れるのを感じました。
ブワッと舞い上がる、春の強風。

 

ミクロの視点から、森を駆け抜ける風の視点に変わります。

木々を揺らし、葉っぱや砂を舞い上げ、やがて風は鳥たちを乗せて、あの感動的な日の出を見せてくれたこの湖へと辿り着きます。

 

そう、それがシベリウスに「人生の中でも素晴らしい経験」と言わしめた、あの16羽の白鳥たち、というわけです。

 

フィンランド人にとって、白鳥は特別な鳥なのだそうです。それはもう、国鳥に指定してしまうほどに。

白鳥は渡り鳥で、南方で冬を越し、春になると北国のフィンランドに帰って来ます。そしてフィンランド人は、春が来てあの優雅な白鳥が我が国に帰ってくるのを心待ちにしているのだそうです。

 

鐘の音を想起させるホルンの跳躍のフレーズに、木管楽器が印象的なオブリガートを乗せて、16羽の白鳥たちはこの国へと戻ってきたのです。

何という感動的な光景でしょう……音楽からも、その喜びが伝わってきます。

 

ちなみに、この交響曲第5番は、第4番の作曲前に直面していた癌による死の恐怖から解放された喜びを反映しているとも言われており、精神的冬が終わり春になった、白鳥たちが帰ってきてくれた、とも解釈できるかもしれませんね。

 

春の気配、喜びの予感。

あの風は、きっと何かが始まる合図。

シベリウスの生誕50周年を、フィンランド人になりきって、一緒にお祝いしてみませんか?

 

Sibelius: 5. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Daníel Bjarnason - YouTube

交響曲第2番(ラフマニノフ)の世界!

皆様はじめまして!ごきげんよう

実はワタクシ、趣味でオーケストラをやっておりまして。先日の演奏会でちょろっと書いたラフマニノフ交響曲第2番の曲紹介を読んでくれた友人がフルバージョンも読みたい!てかもっと色々読んでみたい!と言ってくれまして。

それがとっても嬉しかったのです。

というわけで、これからクラシック、ミュージカル、映画、ポップス、ワタシの心の鐘を打ってきた色んな音楽を、演奏会の曲紹介の体で遺していくことにしたよ!

 

 

ネットで得られるレベルの知識を妄想で大いに補完して独自に咀嚼しておりますので、音楽理論や通説についてはほぼ無視しております!のでプリーズご容赦。

 

 

さて、記念すべき初回はこのブログのきっかけとなったこの曲。ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27。ロシア交響曲の傑作です。供養のつもりで書いてます…!南無!気に入ってもらえると嬉しいなぁ……!

 

 

 

 

 「きのう、ヴィヴァルディ先生が亡くなったと、アンナ・マリーアが泣きながらわたしのところへ来た。」

とは、直木賞作家・大島真寿美さんの著書「ピエタ」の冒頭です。まるでヴィヴァルディの美しい音楽が聞こえてくるような静かで豊かな表現、ヴェネツィアの美しい街並みを感じられる細やかな筆致のことを私が思い出したのは、数年ぶりにラフマニノフ交響曲第2番と向き合った時でした。

 嫌い、でもやっぱり好き。どうしよう。怒ってる、でも嬉しい。なんて言おう。素直に言いたい、でも言えない。懐かしい、でももう戻れない。

そんな湧き上がる感情が、揺れ動く感情が、時に手紙のように他人行儀に、時に訴えかけてくるように激しく、時に少年のように無邪気に、私たちに語りかけてくるのです。

 


 作曲と執筆とは、本質は同じなのかもしれません。それならこの物語の導入はそう、さしずめ、こんなところでしょうか。

 「奥様、ラフマニノフ先生からスコア(楽譜)が届きました。これは…先生からのお手紙なんでしょうか……」

 「まあ先生ったら、うっとりする様な、長い長い夢を見ていらしたのね。」

 


 このラフマニノフ交響曲第2番はコントラバスとチェロによる、印象的な語りによって始まります。皆さんにはどんな情景が見えてくるでしょうか。

 

 例えばこう。寒い冬の日の薄暗いロシア正教会。祭壇からは荘厳な男声合唱が聞こえてきます。

 弔いでしょうか。しかし今夜はとても冷えます。

 椅子に腰かけ、聖歌をぼんやり聴きながら、虚ろな目でイエス・キリスト磔刑に処される祭壇画を眺めていると、

懐かしく愛おしい思い出や悔やまれることがどうしようもなく思い出され、どうにも涙が溢れて止まらなくなってしまいます。

 

 ……どうして。ああ、どうして。

 

 

 またある人はこんな情景が見えてくるかもしれません。

 音のない不気味な夜、暖炉の暗い灯りの前で、ひげを蓄えた老紳士が、こちらを真っ直ぐに見ています。

 ほれ、そこの若いの、わしの話を聞いていきなされ、と。

 「……わしにも昔は20代の若造じゃった頃があった。ロシア革命の火種が其処彼処にくすぶっている、暗く厳しい時代じゃったが、若い魂には、あぁ、それは…それは楽しい時代じゃった……」

 暖炉に火をくべ、熱いお湯を沸かして、老紳士は昔のことをぽつぽつと語り始める……

 

 

 ラフマニノフはこの曲で何を描いたのか、何を伝えたかったのか、答えはオーケストラの語りが、観客の耳に、心に響いた瞬間に完結します。皆さんには、どの楽団の演奏でどんな物語が聞こえてくるか、いつかこっそり教えてくださいね…!

 では、ここからはラフマニノフと各楽章についてご紹介いたします。

 


 ラフマニノフは、とても優れたピアニストであり、指揮者でした。作曲家としてはチャイコフスキーを目標と仰ぎ、大学卒業後22歳で交響曲第1番を発表するも酷評を浴び、もともと繊細だった彼はすっかり精神を病んでしまいます。

 精神科医の勧めで作曲したピアノ協奏曲第2番が評価され作曲家としての自信を取り戻すと、33歳で作曲したこの交響曲第2番で、ピアノ協奏曲第2番に続き2度目のグリンカ賞を受賞します。

 この曲が作曲された頃のラフマニノフは、妻・ナターリヤと結婚し2人の娘を授かるなど、公私ともに非常に充実した日々を過ごしていました。そんなラフマニノフが描いた交響曲第2番の世界とは…!

 


第一楽章 序奏付きのソナタ形式

 冒頭に演奏するコントラバスとチェロによる旋律が、第四楽章まで様々に形を変えて登場しますので、よく覚えておいてくださいね。

 ラフマニノフは、前奏曲「鐘」や合唱交響曲「鐘」など、教会の鐘が着想の源泉の一つだったと言われています。

この交響曲第2番では銅鑼やチャイムといった鐘を思わせる打楽器は登場しませんが、第一楽章の中盤にティンパニ金管楽器によって、鐘を思わせるコラールと、印象的なオクターブのフレーズが登場します。

ここから物語は啓示を受けたかのように劇的に展開し、第一楽章で最大の盛り上がりに達していくのですが、その様子はおよそ筆舌に尽くしがたいものがあります。頭の中には大小様々な鐘が鳴り響き、心は平静を保っていられず、身体中の毛穴が開き、涙が溢れて止まらなくなっていくのです。

…わかってる……わかってるけど…ああもう!……どうして!!

 それから、お話の繋ぎ目にちょこちょこ登場する、クラリネットによる柔らかな気配の正体は、このあと第三楽章までのお楽しみです。

 


第二楽章 スケルツォ

 コサック風の騎馬リズムの先導で現れる、ホルンによる旋律に注目です。
 この旋律は、ラフマニノフが生涯にわたって数々の作品に引用し続けた、グレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ(怒りの日)」の旋律です。「怒りの日」とは、キリスト教における終末思想の一つで、天国に行けるか、地獄に行くか、その最後の審判が行われる日のことを言うそうです。

 一般的に、この「怒りの日」を引用する際は、死を連想させる場面が多いのですが、この第二楽章では前進する強いエネルギーを引き出すきっかけのように使われているのが面白いですね。

 ちなみにワタシには、色んな壁に対峙し、迷い悩みジタバタしてみる様子が想起されます。「どうする家康」ならぬ「どうするラフマニノフ」と。

 


第三楽章 三部形式

 交響曲第2番で最も有名な曲、これぞラフマニノフという、長く甘美な無限旋律は本当に美しく、幸せな夢の中に落ちていくような多幸感を是非味わってください。世界中のクラリネット奏者が憧れる名旋律に、要注目です。

 ロシア人の国民性といえば、仏頂面だが、とても親切で、少しシャイ、というのがあるそうです。そんなロシア人が作ったこの曲を、「アイラブユー」を「月がきれいですね」と訳してしまう日本人が聞くとどう感じられるでしょうか。まん丸の月を眺める二人の姿か、あるいは敬虔なキリスト教信者による涙ながらの告白か。それとも。

 ちなみに、曲の作りとしては、曲の終盤、ドミネ(主)を意味するDのニ長調に収斂していく(天上の世界へ昇っていく)という、すこし宗教的なつくりになっているそうです。

 

 

 

第四楽章 ソナタ形式

 あたり一体は喜びと活気に満ち溢れた賑やかなお祭りです。一楽章から三楽章までに登場した各種旋律を引用する手法はロシア交響曲の伝統なのだそうです。演奏者にとっては、最後の最後にかなり体力を消耗する楽章となっていますが、この第四楽章がこれだけ明るく長い曲になった理由を、少しでも感じていただけたら幸いです。

 

 ちなみに、曲の締め括りの“ダダダダン”は、憧れのチャイコフスキー先生の交響曲第5番へのオマージュ(運命の主題)とも言われています。

 33歳のラフマニノフが描く、これが運命。これが人生。